【文学】池
私の祖父母の裏庭には、小さい池がある。
特に魚などは飼ってはいない。
小さいころは年に一、二回は母親の生まれ故郷がある田舎に良く連れられて行っていた。
そのころ特に印象に残らなかった裏庭の池を思い出したのは、ふとした瞬間であった。
私も大人になり、両親とも離れ、都市部で一人暮らしをしていた。
毎日我先にと大勢が行きかう中を、「夢」という肩書を背負い、辛いことがほとんど見えない様に、日々半目になり耐え忍んできた。そのお蔭か、最近では初めて役職というものが付いた。
そんなある汗ばむようなある日の正午頃、仕事中に母親からメールが入った。
「今度おじいちゃんの家を更地にして、売りに出すから、あんた暇なときに一度行ってきなさい」という文書の後に、猫が笑顔でグットマークをしているイラストのスタンプが添えてあった。
私が大学生三年生の頃、今からだいたい十年前におばあちゃんが死んで、その後おじいちゃんが一人暮らしをしていたが、頭と体にガタが来て、昨年から老人ホームに入っている。
考えてみれば久しぶりの母親からの連絡に、言葉は返さず、負けじと変なスタンプで「了解」の意図を伝えた。
その日の昼休み、新規プロジェクトの案件で頭がいっぱいになっている僕は、同僚の誘いを断り一人でコンビニ弁当をもって、近くの公園でランチをすることにした。
ここの公園は通称「噴水公園」といわれており、都市部には珍しく芝生がきれいに整備してあり、中心に大きな噴水がある公園であった。ちなみに噴水は夏の間だけ水が出ている。
例によってとても暑かったので、日陰のベンチを探してみたが、お昼時間ともあって、周りのオフィスから出てきた先人立ちに席を奪われていたので、仕方なく噴水のへりに座っ
て、弁当を食べ始めた。
休憩空けにやることをいろいろ考えて悩んでいると、弁当に入っていたソーセージが箸から転がり落ち、噴水の中に落ちてしまった。
「げっ!!」本日のランチのメインディッシュを一瞬の内に失ってしまった。
もちろん取り戻せないことはわかりつつ、とりあえずメインディッシュの行く末を見送る為、座っている噴水の縁に手をかけて覗き込んでみた。
良く見てみると水はウグイス色に濁っていて、予想外に、ひげ面の男がそこに映っていた。
結構なおじさん具合に少し驚きと面白さがあった。
自分の顔をまじまじと見たのはいつぶりであろうか
日々の生活の中で、鏡を見ながら髭を剃るとき、夜の電車の窓、スマホの電源を落とした時、ふとした時に顔を見ることは度々ある。しかし、それは自分を見ているようでどこか別のことを考えている。
思いがけずではあったが、自分と見つめ合った経験はここ数年ないと思う。
そう思った後改めて自分を見返すと、イケメンに!?なっていたということはやはり無く、先ほどと同じ中年に差しかかろうとしている冴えないサラリーマンのおっさんそのものであった。
「そういえば」とデジャブのようなムズムズッとしたものを少し感じると同時に、似たような事をした記憶が蘇ってきた。
じっちゃん、ばっちゃん家の裏にとても汚い池があって、小学生の頃、よく生き物を探して覗き込んでいたことを思い出した。
池は、周囲が丸い岩で囲まれていて、じっちゃんが家を建てたとき、ばっちゃんを喜ばせようと思って自分で作ったと、ばっちゃんが言っていた。
まあ、そんなことは小学生の時の自分にとってはどうでもよく、ひたすらに何もいない池を覗き込んでは魚や虫がいないか必死に目をこらしていた記憶がある。
今考えてみると、あの頑固もので、指図ばっかりしていたじっちゃんも、ばっちゃんに愛を必死に伝えようとしていた時があったのかと少し笑いがこみ上げてしまった。
「あれ?じっちゃんばっちゃんが結婚したのってちょうど今の俺とぐらいじゃなかったか?」
自分が「池」を作れる年になっていたことに気づき、何か心が揺さぶられる思いがした。
「はははは、、、、」
周囲の人が見てないことを横目で確認して、力なく笑った。
「おい、じっちゃんよくやったな」
同じ一人の男として認識し、同級性の肩を叩くように笑った。
「俺にはマネできない、、、」
「何やってんだろうな俺、、、、、、」
家も建てる気概もなければ、愛する人さえもいない。
いつか、そのうちと思っていると、気づいたら、当たり前だが、そのころのじっちゃんと同級生になっていた。
「俺って、大人になれているのかな」
大好きなソーセージを探している自分に、池を覗き込み生き物を探しているあの日の自分が重なった。
理由は分からないが、この街から、このオトナだらけの四角い街から、孤立してしまっている感覚に襲われた。
とても疲れているのであろう、ドラマみたいに涙が勝手に溢れてきそうになった。
「ダメだ、ダメだ」
泣きそうなことを悟られないように顔を、割り箸を持った右手で隠しながら、幼い自分が落ち着くのを待った。
考えをそらそうと昨日見たバラエティ番組の出演者の名前を思い出していると、意外とすんなりと泣き止んだ。
涙は出なかったがかなり危なかった。周りは正常なオトナだらけだ。
急にこんないい歳したおっさんが泣いては、不信感をまとった鋭い視線が、四方八方から飛んでくる。
大丈夫だとは思うが、念の為に目が赤くなっていないか確認する為、また噴水を覗き込む。
やはり水は濁っていいて、目の色も顔の色も分からなかった。
「たぶん大丈夫、、、俺は大丈夫」と水面に映った自分の目を見てつぶやいた。
目だけをしっかりと見つめたせいか、顔のしわや髭を見つけることができず、幼いころの自分の顔がゆっくりと浮かんできた。
それを振り切るように顔を横にふって顔全体を眺めた。やっぱりおじさんだった。
少し安心して、またつぶやく「俺には夢がある、俺には夢がある」
「夢のために生きていかなくちゃ、その実現こそが私の生きる意味だ」
「それ以外は無意味なんだ」
鼓動の高鳴りを守るように、そのことが大切だと思い込むように、そのまま思考を停止させた。
あの家にはもう何もない、おじいちゃんもおばあちゃんも戻ることは無い。
刻々と流れる川のように時間も進んでいく。
いろんな気持ちが沈殿して、濁っているのも見つめるのはもう少しあとにしよう
そう自分に言い聞かせ。あの祖父母宅の池を再び見に行かない事を決め、
プロジェクトの会議が予定されている会社へ戻って歩いた。
ひとりの少年を池の中に残して。